ジョン・アーヴィング、「オウエンのために祈りを」

ちょいと趣向を変えて、本について書いてみようと思う。ジョン・アーヴィングは、長編ものを得意とする、現代アメリカ小説の巨匠。「熊を放つ」「ガープの世界」「ホテルニューハンプシャー」「サイダーハウスルール」などが代表作で、その多くが映画化されているためになじみも深いのではないかと思う。

この「オウエンのために祈りを」は1989年に発表されているが、邦訳のハードカバーが出たのは2000年、文庫化されたのが2006年のようだ。アーヴィングは翻訳家泣かせの作家だという話をどこかで読んだことがあるが、往々にして、邦訳が出るまでのタイムラグが長いのも特徴。

僕がアーヴィングを何冊か読んだのは80年代の大学時代。ある意味(悪ふざけの度が過ぎる類の)どぎつさと、妙に説教くさくconclusiveな記述が並んでいる作風だと記憶していた。だいたい上下巻の二冊構成であれば、上巻の半ばまでは、表現がわかりづらく読むのが大変しんどく数ヶ月かかるのだが、しかしそこを過ぎれば一気に作品世界に呑み込まれて、最後までは数日で一気に通読してしまうのが常だった。

本作を読み始めて、教会を重要な舞台とする宗教を直視した設定であることにまず驚かされた。舞台は語り部が少年・青年時代をすごした1950-60年代のニューハンプシャーと、語り部が生きる1980年代後半のカナダ・トロント。土地の名家の流れを組むが私生児として生まれた語り部と、大の親友である不思議な少年オウエンが軸。オウエンが打った野球のファウルボールの直撃を受けて命を落としてしまう語り部の母、その夫のプレップスクールの教師(語り部の義父)、語り部の祖母、従姉妹などが絡んで話は進行していく。およそ少年らしくないオウエンの言動のひとつひとつが、結末(すなわち運命)に流れ込んでいく重要な要素であり、決して見逃してはならないところがアーヴィング作品の辛いところだ。

さて、最初は辛いが途中から一気に吸い込まれるのがアーヴィング作品の常、僕にとっての転換点はクリスマス劇のエピソードのあたりだった。ここを過ぎると、ケネディ時代からベトナム戦争期へと続く青年期の部分は一気に読んでしまった。

衝撃的な結末の舞台は、僕のHNの由来となったアリゾナ州フェニックスのスカイハーバー国際空港だ。なぜ、ニューハンプシャーでもベトナムでもなく、「もがきつつ生きる」ようなタイプの人間がほとんどいない、あんな乾いた土地で物語が終わるのか、いっそう虚無感があおられるのだった。結局、宗教とは縁遠いところで生きている僕のような人間には、この小説は決して理解できるものではないのだけれど、「すべてのことに意味がある」を受け入れられるかどうかについてはじっくり考えてみたいと思うのが読後感。

これまでのコメント

  1. 調子千砂 より:

    反対に
    私はアメリカの小説は、ヘンリー ミラーくらいしか。私は、すべてのことに意味があるといった感覚がしみこんでいる[私の祖父は禅宗の坊さん]ことにもがいて、skyharborさんと逆に、いかにそのしみこんでいる感覚を除去して、主体性を持つか腐心する日々です。嫌いなんです。父が54歳で亡くなったので、尚更難しいです。